Before:アナログ経営の限界とDXへの焦燥
幸楽苑ホールディングスは、1954年に福島県郡山市で「味よし食堂」として創業して以来、70年近い歴史を誇る老舗ラーメンチェーンである。安価で高品質な「中華そば」を武器に全国500店舗以上の巨大ネットワークを築き上げたが、その急成長の裏側で、デジタル化の波に取り残されるという深刻な課題に直面していた。
長年にわたる同社の販促活動は、新聞折込チラシや店頭での「紙クーポン」配布が主体であった。数百万枚単位で印刷され、膨大なコストを投じてバラまかれるクーポンは、誰が受け取り、誰が実際に来店したのかを追跡する術を持たなかった。いわば、ROI(投資対効果)がブラックボックス化した「空中戦」の販促であり、その効率性は極めて低かったのである。
現場の接客においても、店長やベテランスタッフの「勘と経験」が唯一の羅針盤だった。「今日は雨だから客足が鈍るだろう」「週末はファミリー層が多いはずだ」という予測は、個人の熟練度によって精度に大きなバラつきが生じていた。特に深刻だったのは、顧客一人ひとりの嗜好や来店サイクルが全く可視化されていなかったことだ。激辛メニューを好む常連客と、あっさり味を求める新規客に、全く同じ内容の画一的なクーポンを渡し続ける。こうした「ズレ」は、現代のパーソナライズされた消費体験に慣れた顧客にとって、ブランドからのメッセージをノイズとして感じさせる要因となり、休眠客の増加を招いていた。
さらに、コンビニエンスストアの中食市場が拡大し、ラーメンの品質も向上する中で、外食チェーンとしての「選ばれる理由」が希薄化しつつあった。人口減少と原材料費の高騰が経営を圧迫する中、既存顧客のLTV(顧客生涯価値)をいかに高め、データに基づいた科学的な接客を実現するか。幸楽苑にとって、DX(デジタルトランスフォーメーション)は単なる効率化ではなく、企業の存亡をかけた最重要課題となっていた。
AI導入内容:楽天エコシステムと画像認識の融合
この閉塞感を打破するため、幸楽苑が選択したのは、国内1億人以上の会員基盤を持つ楽天グループとの戦略的パートナーシップであった。導入されたソリューションは、単なるポイント付与にとどまらず、画像認識AIとビッグデータを組み合わせた「次世代型マーケティングプラットフォーム」である。
1. 楽天ポイントカードによる「顧客の可視化」
2019年1月より、全517店舗で楽天ポイントカードを一斉に導入した。これにより、それまで「匿名」だった来店客が、楽天IDに紐づく「実名性のある顧客データ」へと変換された。どの顧客がどの時間帯にどのメニューを注文し、どのようなポイント利用傾向にあるのか。オフラインの店舗行動がオンラインの属性データと統合され、精密な顧客行動分析が可能となったのである。
2. 画像認識AI「UmaAI」によるリアルタイム属性推定
さらに革新的な取り組みとして、楽天技術研究所が開発した画像認識AI「UmaAI」を導入した。これは店頭に設置された高精度カメラが、来店客の顔立ちから年齢・性別・表情などを瞬時に推定するシステムである。
- エッジAIによる高速処理: プライバシー保護の観点から、画像データそのものは保存せず、特徴量のみをエッジデバイスで解析。1秒未満という超高速で属性を特定する。
- UmaAIくじのエンターテインメント化: 2019年6月、渋谷道玄坂店で「UmaAIくじ」を試験導入。来店客がカメラの前に立つと、AIがその属性に最適化されたメニューを提案し、その場で使えるクーポンを発券する。
- 若年男性と推定: 背脂多めの「がっつり系」メニューや、麺大盛りクーポンを提案。
- 中高年女性と推定: 野菜2倍の「塩野菜たんめん」や、糖質オフ麺への変更、デザートのセットを提案。
- 家族連れ: お子様セットや、シェアできるサイドメニューのクーポンを提案。
3. データドリブンなレコメンドエンジンの構築
AIによる属性推定結果と、過去の膨大な注文データ(楽天ポイント経由で蓄積されたもの)を組み合わせることで、精度の高いレコメンドエンジンを構築した。「この年代・性別の人は、この天候下ではこのメニューを注文する確率が高い」という予測モデルに基づき、店舗のデジタルサイネージやモバイルアプリを通じて、一人ひとりに寄り添ったプッシュ通知を行う体制を整えた。
After:数値が証明した「おもてなしのデジタル化」
テクノロジーの導入は、老舗チェーンの業績に即座に、かつ劇的な変化をもたらした。
1. 驚異的なV字回復の達成
楽天ポイントカードの全店展開直後の2019年2月〜3月の2ヶ月間において、客数は前年同月比で+12.5%、 売上高は+11.1% という驚異的な伸びを記録した。外食業界において10%を超える成長は、新店ラッシュでもない限り極めて異例である。これは単なる「ポイント目当ての来店」ではなく、データに基づいたセグメント配信やAIによる適切なメニュー提案が、顧客の「今、食べたい」というインサイトを捉えた結果であると言える。
2. 「勘」から「科学」への経営転換
それまで紙の配布に依存していた販促コストは、ターゲットを絞ったデジタル配信へと移行したことで、投資対効果(ROI)が劇的に向上した。特定のトッピングを好む顧客層にだけ新商品の案内を送る、あるいは3ヶ月来店がない休眠客だけに特別なカムバッククーポンを送るなど、緻密なリピーター育成が可能となった。この結果、広告宣伝費の最適化と同時に、顧客一人あたりの来店頻度(リピート率)の向上が確認された。
3. 従業員満足度とブランド価値の向上
現場のスタッフにとっても、AIの導入はポジティブな影響を与えた。「何を勧めるべきか」をAIがサポートすることで、経験の浅いアルバイトスタッフでも質の高い接客が可能となり、接客ストレスの軽減につながった。また、渋谷道玄坂店での「AI体験」はSNSで大きな話題を呼び、「幸楽苑が最新技術を導入している」という驚きとともに、若年層へのブランド認知度が大幅に向上した。
4. DXロードマップの起点として
この成功事例は、幸楽苑におけるDXの「第一章」に過ぎない。ここで得られたデータ活用ノウハウは、その後の配膳ロボットの全店導入や、スマホオーダーシステムの構築、さらには完全セルフ型店舗の展開へとつながる強固な基盤となった。
幸楽苑の取り組みは、伝統ある食文化を守ることと、最新のテクノロジーを駆使することは決して矛盾しないことを証明した。テクノロジーは効率化の道具である以上に、顧客一人ひとりをより深く理解し、現代に即した「最高のおもてなし」を実現するための強力な武器となったのである。同社は現在も、データから導き出される顧客の声を経営の羅針盤に据え、次世代の食体験を創造し続けている。
公開日: 2019年1月28日
事例一覧に戻る